氏名:板野 直樹
愛知医科大学分子医科学研究所
癌組織では間質を構成する細胞外マトリックスに質的・量的変化が高頻度に認められる。なかでも細胞外マトリックスの主要な糖鎖成分であるヒアルロン酸は、乳癌、大腸癌、グリオーマなど多くの癌組織において、その高い産生レベルが癌の進展としばしば関連している。また、発癌ウィルスの感染によって細胞が癌化した場合にも、ヒアルロン酸の過剰な産生が引き起こされる。最近我々は、癌遺伝子産物がヒアルロン酸合成酵素(HAS)の遺伝子発現を亢進させ、ヒアルロン酸合成の増加を導く仕組みを明らかにした1。ヒアルロン酸産生が増加すると、癌細胞はヒアルロン酸に富んだ細胞外マトリックスを形成するが、このマトリックスは腫瘍の成長や癌の浸潤・転移に対して促進作用があると考えられてきた。事実、HAS遺伝子を用いた糖鎖合成の人為操作によって、ヒアルロン酸産生とマトリックス形成を増加させると、線維芽肉腫細胞における腫瘍形成の促進や乳癌細胞における転移の促進がみられた2,3。
癌細胞が運動能を獲得し、浸潤・転移に適した環境を細胞周囲に再構築することは、原発巣からの離脱、周辺組織への浸潤、転移巣の形成に必要とされる。ヒアルロン酸は細胞の遊走活性を刺激して浸潤の増強に働くとされ、その背景となっている分子基盤が急速に解明されつつある(図1)。例えばヒアルロン酸を癌細胞に作用させると、受容体であるCD44やRHAMM(Receptor for Hyaluronan Mediated Motility)を介して、c-SrcやPI-3キナーゼ、MAPキナーゼなど、細胞内の様々なキナーゼカスケードが活性化される。続いて細胞内骨格系の再編や形質膜のラッフリングが誘導され、活発な細胞移動が起こる。
図 1 ヒアルロン酸による細胞内シグナル分子の活性化と細胞骨格再編
ヒアルロン酸合成酵素により合成されたヒアルロン酸は、細胞外においてその受容体であるCD44やRHAMMを介して細胞内シグナル分子の活性化と細胞内骨格の再編を引き起こす。
ERM: ERM (ezrin-radixin-moesin) family
腫瘍が成長し、癌細胞が血行性に遠隔転移する際には、腫瘍血管の発達はその促進に重要である。ヒアルロン酸オリゴ糖は血管新生の誘導作用をもち、故に、腫瘍組織におけるオリゴ糖の蓄積もまた、癌を進展させるリスク要因と考えられる。今後、浸潤・転移を阻止するため、HAS分子を標的とした治療戦略という新たな試みが期待される。