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分子の「形」は機能と密接に関係する。最近、人工知能プログラム「AlphaFold」がタンパク質の「形」を高い精度で予測することに成功して話題となった。分子の「形」がわかると次に知りたくなるのが「動き」である。
分子動力学(Molecular Dynamics)シミュレーション(以降MDシミュレーション)は物理学に基づいて分子の「動き」を調べる計算手法で、NMR(核磁気共鳴)法と並び、糖鎖の柔軟な3次元構造(立体構造)を調べる有力な手段である。MDシミュレーションは原子間に働く力を計算し、ニュートンの運動方程式を繰り返し解くことで分子構造の時間変化を追跡する。生体分子に広く用いられる古典MDシミュレーションは、原子間相互作用を「力場」と呼ばれる経験的なポテンシャル関数を用いて高速に計算する。フェムト(10-15)秒刻みでの膨大な繰り返し計算から、分子の動きを原子レベルの解像度で追跡する。現在、MDシミュレーションはAMBER(https://ambermd.org)、CHARMM(https://www.charmm.org)、GROMACS(https://www.gromacs.org)、GENESIS(https://www.r-ccs.riken.jp/labs/cbrt/)などの汎用プログラムパッケージを用いてアカデミアおよび産業界で広く活用されている。
糖鎖は残基間を結ぶグリコシド結合の回転により多様な形を取る。MDシミュレーションを用いて、分子の揺らぎやグリコシド結合の回転、それに伴う分子内・分子間相互作用の変化を含め、実験で観測することが難しい分子全体の動きを調べることができる。しかし、MDシミュレーションはフェムト秒刻みで分子運動を追跡するため、現状では、回転異性体の遷移など、ミリ秒やそれよりも遅い動きを追跡するのは難しい。例えば、α(1-6)グリコシド結合のgauche-trans遷移は1マイクロ秒のMDシミュレーション(107回の繰り返し計算)で数えるほどしか見られない。そこで、分子運動を加速して多くの構造を探索する手法が開発されている。例えばレプリカ交換分子動力学法(REMD法)では、温度の異なる複数のMDシミュレーションを並列に行い、温度を適宜交換することで、高温で多くの構造を探索し低温での安定構造を効率的に見つけ出す。この様な手法を用いると糖鎖が取りうる複数の回転異性体構造と存在比を高い統計精度で求めることができる。各構造でグリコシド結合を介したNOE(核オーバーハウザー効果)やスピン結合定数(J)を計算して重み付き平均を求めれば、それらの平均値として得られるNMR実験値と直接比較することができる。シミュレーション結果の検証となるだけでなく、実験値に寄与する代表構造を決定することができる。複数の代表構造(立体構造アンサンブル)は分子の動きを特徴づけており、レクチンの糖鎖認識など、糖鎖機能の発現メカニズムを立体構造から説明できる。
実際のMD計算では、まず初期構造と力場を設定する。力場は原子間相互作用を表す関数とパラメータ群で、一般に結合相互作用項(結合、角度、二面角)と非結合相互作用項(静電相互作用とLennard-Jones相互作用)からなる。関数に含まれる平衡核間距離や力の定数といったパラメータは量子化学計算の結果や熱力学量を再現するように決められる。タンパク質、核酸や脂質分子の計算に用いられる汎用パラメータに加え、糖鎖固有の立体構造(配座の多様性、パッカリング、アノマー効果など)を再現する様に決められたパラメータとしてCHARMM36、GLYCAM06(AMBER)、GROMOS 56A6CARBO、OPLS-AAなどがあり、糖鎖だけでなく、糖タンパク質や糖脂質など複合糖質のシミュレーションも可能である。いずれもピラノースおよびフラノース環状構造をとる多様な糖鎖に対応しているが、それぞれパラメータの決め方は異なる。糖鎖分子そのものの立体構造予測で大差はないとされる一方、力場によって水和自由エネルギーの評価が異なり糖鎖の凝集が起こるといった報告もある。複合糖質や複雑な系のシミュレーションでは糖鎖―タンパク質・脂質―水分子間の相互作用バランスが力場毎に異なるため、特定の非結合相互作用項の寄与を弱めるなどして精度を向上させる工夫がなされている。どの力場を使うかは、使用するプログラムや計算対象に加え、最新の開発情報にも注意したい。
糖鎖は実験的な立体構造情報が少ないため、MDシミュレーションに用いる初期構造の作成も重要である。最近では、GLYCAM-Web(https://glycam.org)、CHARMM-GUI(https://www.charmm-gui.org/)、GlyProt(http://www.glycosciences.de/modeling/)といったオンラインツールや、doGlycans(https://bitbucket.org/biophys-uh/doglycans/)などダウンロードして利用可能なツールがフリーで公開されており、糖鎖の種類と結合サイトの情報をもとにMDシミュレーションの初期構造と入力ファイルを簡単に作成できる。汎用プログラムを用いて誰もが糖鎖の動きをコンピュータ上で見ることができる環境が整いつつある。初期構造モデルの妥当性や、力場の精度、計算時間による適用限界を知りつつ、MDシミュレーションにより糖鎖の多様な機能構造が明らかになることを期待する。
Fig. 1
糖鎖MDシミュレーションの例。N型複合型糖鎖の代表構造と3JHHスピン結合定数(左)とラッサ熱ウィルス表面糖タンパク質の動的な糖鎖シールド構造(右)。
李 秀栄(国立研究開発法人 医薬基盤・健康・栄養研究所)
References |
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Sugita Y, Okamoto Y: Replica-Exchange Molecular Dynamics Method for Protein Folding. Chem. Phys. Lett. 314, 141-51, 1999 |
2023年 6月15日
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